我輩は社会人4年目である。アイデンティティはまだない。

思ったこと書きます。内容も更新も気分次第です。

ミスコン,昨今,オワコン?

日本の大学祭でおなじみのイベントの一つに,ミス・コンテスト (以下,ミスコン) があります。規模の大きいミスコンになってくると,メディアやSNSで大きく取り上げられ,一瞬にして候補者が有名人になる勢いがあります。一方で,近年ではミスコン廃止論というものも盛んになり,長年続いていたミスコンを廃止したり,形式を変えたりしている大学も多く存在します。

 

今回は,ミスコンがなぜ批判されるようになってきたのかを学び,その上でミスコンは絶対に廃止されるべきなのか,どちらかといえば廃止した方が良いのか,はたまた廃止する必要なんてないのかを考えてみたいと思います。また,ミスコンについて考えた後に,多様性についても少し考えてみようと思います。

 

 

第1章 ミスコン,昨今,オワコン?

ミスコンは,①規模や形式の差こそあれ全国に広く普及していること,②近年潮流が大きく変わっているジェンダーや多様性に絡むお話であること,③多くの大学で文化祭シーズンが近づいてくること (今年は例年通りの開催は難しそうですが) から,このタイミングで考えておきたいトピックだと思っています。

なお,ミスコンの実施形態は様々あるかもしれませんが,この記事では大学において開催されるものの実施の是非を考えます。

 

ルッキズム (Lookism:外見主義)

ミスコン廃止論の中で最も重要な考え方はルッキズムであると思われます。

ルッキズムとは,wikpediaによれば「身体的に魅力的でないと考えられる人々に対する差別的取り扱いのこと」を指すようです。一般的に浸透しつつある考え方として,人を外見で評価してはならない,というものがあり,ルッキズムと関連していると思われます。

もう少し正確にいうと,ミスコンに対するルッキズムからの批判としては,「画一的な美の基準で人を評価したり判断したりするのがよくない」ということになります。

私もこの意見に同意します。人それぞれ容姿についての好みがあることは自然なことですが,それをオープンにし,かつ評価して序列をつけることは誠実な行いとはいえないです。その行為自体が,性的な消費 (詳細は割愛します) に直結し,多くの方の気分や,場合によっては人権を害するからです。また,「画一的な」というワードも肝で,美的価値のように相対的で曖昧で多様なものを,多数決のようにして絶対化,可視化することにも問題があります。

この,本来画一的でないものを画一化することの弊害ということは気に留めておく必要があると思います。なぜなら,画一的な価値に基づいて優劣を判定する営みは無数にあり,それらを悪と考える人はあまりいないからです。例えば,オリンピックの100m走では,優劣を決める基準はタイムに画一化されています。速く走れるかどうかで順位をつけるなんて非人道的だ!と人々が言わないのは,走る速さを唯一かつ絶対の基準として選手を評価することに,皆が合意しているからです。

 

環境型セクシュアルハラスメント

ミスコンの実施は,環境型セクシュアルハラスメント (以下,環境型セクハラ) にあたるという主張です。先に結論を言うと,私もこの主張に納得しました。セクハラには大きく対価型と環境型の2種類があり,大学における環境型セクハラとは「性的な⾔動、性的な図画や⽂書等の掲⽰または提⽰により、安全で公平な研究教育環境または職務環境を阻害したり、研究教育場または職務上屈辱感や不快感あるいは不安感を抱かせるような環境を醸成すること。また、その結果、教職員や学⽣の⼈格や個⼈の尊厳を傷つけること」とされています。

この定義を読むと,環境型セクハラに該当する事象はミスコンにはつきものであることがわかります。投票等を含めてミスコンに参加する気のない学生であっても (あえて女性に限定しません),参加者を性的に見ている言動を見聞きすることはそこそこ起きるでしょう。また,参加者と自分の容姿を比較して自分は美しくないとか価値がないとか考えてしまうこともあるかもしれません。これらによって不快感,不安感を抱かせることがある以上,ミスコンというイベントは,望んだ人しか参加しない場合であっても,構造的に環境型セクハラを含んでしまうでしょう。

実は私自身も,この記事を書こうと思って調べるまでは,参加したい人だけでやってるんだから誰も傷つけてなくない?と楽観的に考えてしまっていました。それは誤りで,「その他大勢」の気分を害したり,もっと言えば学内や社会における,取るに足らない美のスタンダードを醸成,強化してしまう危険性を孕んでいるということです。

 

 

まとめ

今回の私の主張は,ごくシンプルなものに集約できます。

  • ルッキズム,セクハラともに不特定多数の人の人権を侵害するために排除すべきものである。
  • 大学におけるミスコンにおいては,ルッキズムや環境型セクハラを容認・助長する構造がついてまわると考えられる。
  • 大学においてミスコンを実施することについて,(少なくともメリットよりは) デメリットが大きいと考えられるため,積極的な廃止に賛同する。

 

ただし,この主張もまた,私の「価値」観に根ざしていることをきっちりと申し添えておきます。すなわち,人権侵害 (の可能性を放置すること) を防ぐことを第一目標においているということです。ミスコンがあることで,ない場合よりも輝ける人は当然存在するでしょう。私は,彼女たちに与えられるかもしれない機会よりも,より多くの人のより基本的な権利を守るべきだと考えるため,上記のような立場を取るということです。この意見が正しいかはわかりませんし,ある程度正しいとしてもこれでミスコン問題が解決するとも思っていません。そして重要なことに「正しさ」は時代や文化によって絶えず変化します (価値を画一化することのナンセンスさにつながります)。なので,我々は思考をやめてはいけません。

 

ちなみに今回の記事では,長くて複雑になるために触れられなかった観点がいくつもあります (例:ミスコンとミスターコンの関係性,新しいミスコンとジェンダー課題への対応,伝統的な男性中心社会の問題等)。本記事のテーマに関心を持たれた方は,私が参考にしたwebページや文献を読まれることをオススメします。

 

ジェンダー・多様性      →参考文献2

ミスターコン         →参考文献3

才能・能力の発揮       →参考文献4

男女の非対称性,女性の客体化 →参考文献3,4

 

参考文献
  1. ルッキズム - Wikipedia
  2. 現代のミスコン/ミスターコンを、「ジェンダー論」の専門家はどう考えるか(高橋 幸) | 現代ビジネス | 講談社(1/7)

  3. 現代日本のセクシズム・ルッキズムについての考察 : 大学におけるミスコンを起点として
  4. ミスコンを批判することは「容姿という才能を活用する機会を奪う」ことではない : 九段新報

 

 

 

 第2章 〇〇コン,近々,オワコン?

皆さんにはここまで,特段オリジナリティのない記事を読ませてしまったので,まとめの後で恐縮ですが私の所感を述べたいと思います。

ミスコンは見た目や性に関する評価ありきなので,そんなものに優劣をつけるのはよくないということで廃止論が盛り上がっています。上記のように私は廃止論に基本的に賛成の立場をとりますが,ややもするとこの動きはある意味で悲劇の始まりかもしれないというぼやきをしようと思います。

 

多様性尊重の誤解と暴走

「容姿の価値は多様だから画一的な評価はいけない (lookism)」という論は,特に多くの人に関わり,特に弊害が大きかった概念が容姿であったために,これを評価・順位づけしないことの意義が最初に問われているということかもしれません。何が言いたいかというと,この世に山ほどある価値が相対的なものは,多様性の尊重を誤解したプロパガンダの元に次々に評価することを禁じられるのではないかということです。つまり,何かが できる / できない とか 優れている / 劣っている ということを顕現させるようなコンテストの類が駆逐されていくのではないかという予測です。本記事のタイトルになぞらえれば,〇〇コンが順次オワコン化していくということになります。

例えば,ユーモアなんて人それぞれなんだから画一的な評価はいけないとする主義,"humorism"が出てきたらM-1グランプリ等はなくなる可能性があります。味の良し悪しに絶対なんてないんだから点数化はやめようと言って"tastism"なんかが台頭したら食べログミシュランも葬り去られるかもしれません。

日本や欧米の多くの国では,長い時間と大変な苦労の末に資本主義や民主主義を獲得してきました。すなわち,一人一人が表現する自由や競争する自由を勝ち得てきた,と言い換えても良いと思います。そうして,皆が同じである必要がなくなり,むしろ違いを認めよう,ということになってきているわけです。念のため述べておくと,私は多様性の理解と尊重はとても大事だと考えています。人々が属性や能力によらずその存在価値を認められることが悪である理由が見当たらず,いくらあってもありすぎることはないからです。

しかし,この多様性尊重運動が本来の目的を見失って暴走すると恐ろしいと思いました。多様なものをそのままにして,一切の評価も順位付けも行わない世の中。

ーーいろんなことに秀でていたりいなかったり,そんなものがはっきり見えたら生きにくいよね。大丈夫,この社会では誰もそんなことしないよ。ビバ!多様性!ーー

この社会の姿は,多様性に価値が見出されるようになった歴史に対する皮肉だと思いませんか。好きや得意を生かして,自由に表現して,天井のない利益や名声を得ることを可能にするために社会構造を変えたのに。こうなってしまっては,ユーモアがある人のユーモアも,料理が得意な人の料理も,正当な評価を得られず埋没したままになってしまう可能性が高まります。これは,個人の成功のチャンスだけでなく,長期的には社会全体の生産性をも著しく損なうでしょう。競争したい,評価されたいと考えている人が評価を受ける権利を守ることも大切なのです。

 

多様性尊重の本質

多様性を尊重することの本質は,「いろいろな特徴があって良い」ということのみを保障することにあり,「飛び抜けてはいけない」ということとは全くもって意味合いが異なります。これがとても重要です。個性の存在自体を認めないことと,個性の発揮を否定することとを,混同してはなりません。これまでの暮らしから見るに,特に日本人はこの区別が苦手な傾向にあるかもしれません。なので気をつけましょう,と自戒を込めてここに記しておきます。何年後かにドヤ顔で「ほら言っただろ」と言わなくて済むことを祈りながら。

 

さいごに

多様性を尊重しながら,つまりルッキズムを克服しながら,各個人がその強みや個性を発揮する機会が最大限用意される世の中になるといいなと思いました。 アメリカなんかでは,部門を細分化してミスコンを開催する方法でルッキズムを乗り越えようとしています (参考文献2参照)。私は,第1章のまとめで触れたように,ミスコンがあることで輝けるかもしれない人の機会を奪うことになるという点で,単に廃止するということにももどかしさを感じています。多様性の尊重と個性の発揮の両立,ベターなやり方を探し続けることが求められていると思います。

 

 

最後までお読みいただきありがとうございました。

ネタが尽きているので,テーマを随時募集しております。

 

たたかずに,たたかおう。

たたかずに,たたかおう。

敵でないものをたたかずに,敵とたたかおう。

 

 

はじめに

緊急事態宣言も延長され,もはや生活に変化が出ていない方はいないのではないでしょうか。中にはご家族や知人を亡くされた方,仕事を失った方などもいらっしゃるかと思います。まずは,とんでもない不幸に見舞われながらも今を生きておられる皆様に敬意を表します。

筆者は,人々が出口の見えない恐怖やストレスに押しつぶされ,世の中が混沌に向かいつつあるような気がしていて,そのことを心配しています。特に気になるのは感染者やその他様々な人に向けられる非難の声や暴言です。SNS等では,ただでさえ病気で苦しんでいる人や,事情を理解してもらえていない人に対しても,容赦ない罵声が浴びせられています。

コロナ影響 相次ぐ悪質投稿 "差別生じさせる許されない行為"

私は今回「公衆精神衛生」という言葉を用います。これは公衆衛生と精神衛生を組み合わせて勝手に作った造語です。ネット上を含む公共の場で心がざわつく情報や気が滅入る情報が入ってくるような状況を指して,公衆精神衛生に悪いと表現します。このトピックは十分社会問題であると考えます。例えば医療従事者及びその家族への差別・偏見は大きな問題ですが,公衆精神衛生が良くない状態はこのような差別・偏見を助長する恐れがあるでしょう。そこで私から発信したいことは以下の通りです。

  • 目的を見失わないようにしましょう。
  • たたかずに,たたかおう。

 

ということで,目的とは何かから始めたいと思います。
あなた個人の目的は一度脇において考えていただけるとありがたいです。
多岐に渡りすぎるので。
店の営業を再開すること,学校に行くこと,仕事の休みをとること,帰省すること,ずっと家にいて目障りなパートナーとの関係を終わらせること,扇情的で偏りがちなマスメディアの報道に終止符を打つこと。。。

今の目的は,社会全体の目的は,新型コロナウイルスによる感染拡大を終息させ,このウイルスが登場する前の社会生活に戻すことだと思っています。これが達成されれば,上のような各個人の目的は達成されるか達成する必要がなくなるはずだからです。少なくとも国や自治体はこの方針で動いていて,国民もそこについて行っていると思います。 

何かあればこの目的に立ち戻りましょう。
そしてここからは,「たたかずに,たたかおう」について考えていきます。

 

敵はわかっている

冒頭に「敵」という言葉を出しましたが,結論からいうと敵は新型コロナウイルスです。今回のキーワードになるので,敵を定義しましょう。

敵="あなたやあなたの周りの人々の暮らしを良くするためにいなくならなければならない存在"  です。

敵は,感染者ではないです。

敵は,政治家でもないです。

敵は,休業要請に従わず営業しているパチンコ屋でも,そこに並んでいる客でも,感染の疑いがあるのに県をまたいで移動する人でもないです。

敵は,そのような人に罵声を浴びせる人でも,自粛要請を守らない人には何をしても良いと考えている人でもないです。

今出てきた人々は,直接的にあなたに害を及ぼしません。当然めぐりめぐってあなたやあなたの周りの人々の暮らしを壊すリスクはあります。しかし,彼らがいなくなってもコロナウイルスはいなくなりません。というよりもいなくなったかどうかがわかりません。どこまでいっても,本質的に敵とみなすべきはコロナウイルス自体であり,それだけです。

そして重要なことは,誰しも敵が新型コロナウイルスであることなんてハナからわかりきっている,ということです。

 

敵を作るヒト

ではなぜ,特にSNS上では様々な人への罵詈雑言が飛び交い,公衆精神衛生上よくない状況が生まれているのでしょうか。

それは,ヒトが簡単に敵を作り出す生き物だからです。少し皮肉の効いた言い方をすれば,敵であると認識しなくても問題ない存在を敵であると思い込む能力が非常に高いということです。

ここで気をつけていただきたいのは,ちょうど良い言葉が思いつかなかったので思い込むと表現したのですが,多くの場合はある対象を敵と認識していることについて本人は無意識・無自覚であり,悪気はありません。どういうことでしょうか。ヒトという生物について少し考えてみます。

ちなみに,ここでヒトとカタカナを用いているのは,文化的な人ではなく生物種としてのヒトに注目した考え方を述べるからです。

 

ヒトの歴史は戦争の歴史と言っても過言ではないと思います。日本史や世界史の数千年を振り返っただけでも,覚えきれないほどの数の戦争が登場しましたよね。これだけ同種の他個体を殺害する動物,それも集団と集団で殺し合いをする動物はレアだと言われています。ヒトの歴史はホモ・サピエンスに限っても約20万年,アウストラロピテクスまで含めると約400万年とされています(諸説あります)。そして,ヒト同士が集団に分かれて行う戦争においては,以下のようなポイントがあります。

①居住地や血縁関係にしたがって,ある程度 (遺伝子的に) 均質な集団でチームが構成されている場合がほとんどであろうと考えられます。
②勝つためには結束力が必要です。仲間を裏切るメンバーや,自分のことしか考えず秩序を乱すメンバーがいるとチームワークが発揮できず,勝率が下がります。(※そのようなメンバーに罰を与えることで社会性が発達したという考え方もあります)
③負けた方のチームは子孫を残すことができないか,残せたとしても非常に数が少なくなり,遺伝子情報が後世に伝わりません。

壮大な話になりましたが,何が言いたいかといえば,現在地球上に存在している私たちは,絶え間ないヒト同士の争いにことごとく勝利してきた集団の子孫なのです。つまり,仲間と敵をはっきりと分け,仲間に忠誠を尽くし,敵に対して拒否的あるいは攻撃的な行動をとり,さらに仲間であるはずにもかかわらず団結の邪魔をする相手をとことん糾弾することが「できた」集団の特徴を備えている生き物なのです。逆に言えば,知らない人 (≒病気をうつしてきそうな人) や生活域の秩序を乱す人 (≒自粛を守らない人) に対して寛容だったヒトや集団は,現代に来るまでの長い歴史の中で敗者となり死に絶えているのです。なお,「できた」と書いたのは,それらの能力の副作用として,現在公衆精神衛生問題が発生していると考えているためです。

 

さて,私たちは自覚しなければなりません。程度の差こそあれ,私たちは敵を作り出すことや敵を攻撃することを生き残るための仕組みとしてプログラミングされ,現代に生まれ落ちてきたのです。もっと平たく言えば,私たちは他人に厳しいのです。そして厄介なことに,このような歴史から私たちが敵視することを特に得意とする相手は「人間」です。

そのようにして,感染者をたたき,マスクをしない人をたたき,休業要請を守らない施設 (の経営者) をたたき,旅行や帰省をする人をたたき,不謹慎な発言をする人をたたきます。さらにいえば,このような人をたたいている人をたたきます。SNS等で文字で行われている様子だけ見ても過激だなと感じる方がいると思いますが,これはまさに人類の得意技である戦争のレプリカです。

私は,ルールを守らない人や頑張っている人のモチベーションを下げる行動をとる人を擁護したいのではありません。私も彼らに対して良い印象は持ちません。

そうではなく,目的を思い出しましょう,たたく行動は目的の達成に向けて逆効果ではないですか?と問いかけたいのです。目的は,コロナの終息でしたね。

たたくと何が起きるでしょうか。感染者をたたくと,感染リスクは高まります。長くなるので詳細を知りたい方は下記リンクをご参照いただければと思いますが,たたかれると分かっていたら,感染を隠したり,感染前の行動について虚偽の報告をしてルートが見えなくなったりするためです。

なぜ、感染した人を非難してはいけないか?人間行動の法則から解説する|松田壮一郎|note

その他の様々な人をたたく場合はどうでしょうか。単純に人々を問題の本質から遠ざけます。感情に振り回されて,建設的な策を考えられなくなっていては問題解決には至りません。「自分は自粛しているのにあの人はやってない」と100回言うよりも,その人が自粛しない/できない理由を1回尋ねて何ができるか一緒に考えた方が建設的です。

(宣伝…!私が過去に書いた記事です 「『無人島に何を持っていくべきか』を話し合う会議」に何を持っていくべきか - 我輩は新卒社会人である。アイデンティティはまだない。)

たたくことのメリットがあるとすればその人の憂さ晴らしにつながることでしょうが,デメリットとしてたたかれた人の人権が損なわれたり,公衆精神衛生が害されたりします。それらの積み重ねにより,ウイルスだけでなく差別・偏見が蔓延してしまいます。

つまり,どんな対象をたたくにしても,その行為は我々が新型コロナウイルスに勝利する時機を遅らせているのです。

 

敵を作らないようにするには

個人レベルの取り組みと,社会レベルの取り組みが考えられると思います。

個人レベルの取り組みに関しては,とにもかくにも自覚することが大事でしょう。私たちは敵を作り出すことに長けていて,油断すると誰かを攻撃してしまう性質を持っているのだと。人類史の項では集団同士の戦争を取り上げましたが,現実には個人対個人や個人対集団,集団対個人の構造もありますし,SNSでは敵対関係でなく一方的な攻撃も散見されます。いずれにせよ,自分が加害者となり得ることを意識する必要があるでしょう。

社会レベルでは,国民の共通敵が新型コロナウイルスであることを強調したメッセージを出すことが求められるでしょう。政府やマスコミにはこれをやってもらえないかと思っています。国民は立場や背景が違いすぎるため,争うかどうかは別にしても多くのサブグループがすでに存在することは事実です。例えば収入の多い人と少ない人とでは10万円給付の重みが違いますし,重症化リスクが高い人と低い人とでは使用可能なICUの数を気にかける程度が異なるでしょう。私が特に不毛だと感じるのは年齢によるグルーピングです。若者が夜に外を出歩いて撒き散らしていると言ったり,はたまたお年寄りが日中に商店街で密を作っていると言ったり。自身が属さない分類の人々に責任を押し付けあっている間,ウイルスは蚊帳の外です。蚊帳の外なのに我々の体内に居続けているんですよ,なんという皮肉でしょうか。

 

たたかずに,たたかおう

敵でないものをたたかずに,敵とたたかおう。

感染者や気に食わない行動をとる人をたたかずに,ウイルスとたたかおう。

 

今回問いかけたかったことは,コロナへの恐怖や生活上の不満から,注意を向けるべき方向がずれていませんか,ということでした。私たちはイチ生物ですから,持って生まれた性質には逆らえず,上手に付き合っていかなければなりません。とりわけ,今のように脅威が大きい状況は,目に入りやすくて感情を動かされやすい情報に対して人を敏感にさせるものです。すなわち,理解できない人が普段以上に敵に見えやすく,ストレスを発散するためにその敵に見えた人を攻撃するというのは,ある意味自然なわけです。にんげんだもの,といったニュアンスでしょうか。しかし私たちには,その傾向を理解した上で,さらに先のステップに進むことが求められているのです。


今更にはなりますが,1億人以上が生活している日本の中で,大多数の人は「たたく」行動をしていないと思います。たたかずに,たたかっておられると思います。自分にできることを考え,最大限実行し,他の人の行動には口出ししないように気をつけていらっしゃると思います。それは素晴らしいことです。一方で,ネットやマスコミの恐ろしいところは,情報の持つ影響力が凄まじいところです。私は,公衆精神衛生上好ましくない情報が大多数の健全な人々に届き,彼らを蝕んだり,少数派に引きずり込んだりすることを危惧しています。この観点から,ターゲットとなる方があまり多くないとしても,このようなメッセージには意味があるのではないかと考えています。

 

では,要点をまとめて終わりにしたいと思います。

  • 見失ってはいけないのは,コロナを終息させるという大きな目的である。
  • 敵は,新型コロナウイルスそれだけである。
  • 私たちは,敵を作り出し,攻撃する性質を持った生き物である。
  • 一部の人を敵とみなして攻撃することは,目的から見ると逆効果である。
  • 敵を作らないためには,自身が敵を作りがちな生物であると自覚することと,属性にかかわらず新型コロナウイルスが共通敵であることを社会全体で共有することが重要である。

以上が要点です。皆さんとも考えや感想をシェアできると幸いです。

 

注) この文章は私の浅学な知識に基づいて書かれており,科学的根拠を担保するものではありません。そのため,訂正や補足を大いに歓迎いたします。

 

STAY HOMEを発信に使うというのは悪くないですね。

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

卒業制作 〜全国行脚 じゃパン旅行〜

2020年3月31日。今回の更新日は私にとって学生生活最後の日です。そこでこのブログには卒業制作を公開したいと思います。ブログタイトルにある通り私は大学院生なので,卒業にあたって修士論文というやつを書きました。しかし自分の関心はマニアックすぎて,話し始めると本当に大学院生みたいになってしまうのでここでは控えます。ちなみにテーマをざっくり言うと人間の道徳性の種類と機能についてです。興味がある変態諸氏は連絡してください。

 

卒業制作のテーマ決め

さて,はてなブログはもっとオープンな場なので,大学生活を満喫した証として何かしらキャッチーなものを残せたらいいだろうと思っていました。大学生っぽい卒業制作って何があるだろう。なんでもアリ過ぎて難しい問いに聞こえますが,これは即決でした。大人が大学生に言いがちなセリフランキング第1位は改めて調査する間でもありません。「学生のうちに旅行しときや。社会人になったら時間ないで。」の1択です。言われたことない大学生は卒業要件を満たしていないといってもいいでしょう。

ということで,卒業制作は旅行記に決定しました。よ〜〜〜〜し! 

…大人は大学生をナメています。いや,ナメてはないかもしれませんが学生時代のことを正確に覚えていません。

まず,大学生にどれくらい時間があるでしょうか。授業,サークル,バイト,就活用のエピソード作りのために参加する謎のイベント,無意味で有意義なファミレスオール,etc。我々は意外と時間に追われているのです。真面目な学生はテストやレポートに向けてそこそこ時間をかけて努力するし,不真面目な学生も真面目な学生から過去問を得たりアイデアを分けてもらったりするために日々の関係構築を怠るわけにはいきません。社会人よりは自由時間が多いものの,手持ち無沙汰ではないでしょう。長期休みは確かにガチ長期ですが,留学やインターンに精を出す人もそこそこいます。帰省も大事ですね。

次に,大学生にどれくらいお金があるでしょうか。もちろん人それぞれですが,経済的に余裕がある人も,それはほぼ保護者に余裕があるということでしょう。たまに聞く在学しながらゴリゴリ稼げるスーパー起業家大学生みたいな人は,全国でも数えるほどだと思います。基本的に旅行というのは贅沢であり,学生にとっては特にそうで,ポンポン行けないからこそ非日常であり思い出となるのです。

要は,大学生に与えられた時間的余裕と金銭的余裕は,大人が思っているほど大きなものではないのです。あれ,旅行記書けない?

 

発想の転換

諦める必要はありません。"実際に"行くことばかり考えているから,時間とお金が足りないのです。時間がないといったって,朝は授業が1コマ目にない日は社会人より相当ゆっくりできます。お金がないといったって,バイトしたお金で服を買ったり飲み会に行ったりしているわけです。

あと,この卒業制作を遂行する目的にも立ち返りましょう。キャッチーな何かを残すことさえできれば良いのです。そのためには高い教養も美しい写真も並外れた行動力も必要ありません。したがってこの記事は,崇高な体験や価値観の転換を提供するものではなく,あなたたちはこれを読むことで,今まさに人生の大事な数分間を無駄にしているのです。

 

□続きを読むことは私自身の意思にのみ基づいており,面白くなくても著者に時間を返すよう要求しません。 

 

一応チェックボックス作っときました。ハラスメントが流行りすぎて被害者ヅラしたら勝てる世の中になりつつあるので,こういう書式は個人ブログなどでも一般的になるかもしれませんね。

 

じゃパン旅行

トピックが散らかってきたので戻ります。旅行です。日本中を旅して周るのです。家にいながら行くのです。朝の時間を活用するのです。コスパ最強でやっていくのです。行った気になったもん勝ちなのです。

条件を満たした旅行を計画しろ。誰もやったことないであろうやつを。

んーーーー ... はいっ!

題して『全国行脚 じゃパン旅行』!!! 

 

ルール

  • 食パン1枚をトーストし,都道府県の形になるように食べる
  • 地図を見るのはOK
  • パンを変形させることのできる部位は口のみ,手やナイフで切るのはNG
  • 目印の線や切り込みを入れるのはNG
  • 好きな食パンを用いてよい,変更してもよい
  • 制限時間なし

 

非常にシンプルですね。現在の競技人口は知る限り自分1人なのでルールもへったくれもないのですが,きっちり明示しておきましょう。ライバルの出現を夢見て。競技人口が増えたら芸術点とかで競えそうですね。将来的にはオリンピック種目を目指していま (ry

さて,トーストだけをツールとして日本全国を訪れることになりました。それはさすがに旅行ではなさすぎる,と感じた方はここでブラウザを閉じてください。なお,画面内の◀をタップして戻るとここまでのデータが失われるのでご注意ください。

また,食べ物で遊ぶな系過激派のために申し添えておきますが,都道府県の形が完成したら1枚写真を撮って,残りはスタッフがおいしくいただきます。つまりただの朝食です。

いらんことばっかり言ってなかなか旅が始まらない。現実の旅行でも荷造りをするためにまず片付けが必要になって準備がギリギリになるタイプです。

 

いざ行かん

じゃパン旅行ではどこから旅を始めるかは自由なので,とりあえず北から順番に攻めていこうと思います。というわけで,最初は北海道〜!現実にも1番行ってみたい場所です。ご存知の通り,こんな形をしています。なお本記事で登場する地図は著作権フリーのサイト (https://illustimage.com/?gp=%E5%9C%B0%E5%9B%B3からお借りしています。

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北海道 地図

意気揚々と挑戦したのですが,ハイパー難しい。。。南西の札幌や函館のあるあたりが非常に入り組んでいて,1枚のトーストから歯のみで浮かび上がらせる表現力が備わっていませんでした。ちょっと後回しにさせてください。

 

東北地方

気を取り直してまず東北地方に行くことにしましょう。私は西日本の人間なので,現実には行ったことがないところばかりですが,この旅行において経験値は有利にも不利にも働きません。どこに行こうにもやることはただ1つ,マーガリンの香りがする大地の不必要な部分を削りとっていくだけです。

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東北地方 地図

前フリが長くなりましたが,やっと作品を見てもらう瞬間が来ました。

では一気にいきましょう。

ドンッッ

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…改めてこの企画大丈夫か。しかしこういうことです。これ以上でもこれ以下でもありません。じゃパン旅行という絶妙にダサいネーミングも,この作品の各ピースの華のなさを考慮するとマッチしているように思えてきました。また,完成度に関して高いと思うか低いと思うかはご自由ですが,やってみるとそこそこ難しいです。例えばチョコソースなんかで境界線の目印をつけられたらもう少しクオリティを出せたかもしれないです。

訪れてみての感想としては,結構南北に長い県が多いんだなということです。用意された大地は正方形に近いので,どうしてもそこに引っ張られてしまいました。特に秋田県岩手県の持つ迫力を引き出せなかった点を次回からの旅行の課題としたいと思います。

 

関東地方 

では続いて関東地方に赴きます。4月から就職し,関東に出てくるのでこの旅行で土地勘をつけておきたいところです。模範解答はこちら。いや旅行に模範解答なんてないか。

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関東地方 地図

そういえば今回,縮尺は無視することとします。トースト1枚ごとに1都道府県を最大限表現します。では作品をご覧ください。

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ちょっと上達した気がする。特に群馬県と神奈川県の再現度高くないですか?見比べてみてもほら。ねえこれやっぱり結構上出来じゃないですか?みんなのやつも見せてよ。えっなんで見せてくれないの?あっそうかやってないんか。そりゃ普通やらないよね。

オンリーワンになりたくて始めたはずなのに,卒業制作とはそういうもののはずなのに,競技人口"1"の実感が湧いてきてだんだん寂しくなってきました。そういえば実際に行くタイプの旅行も複数人で行く方でした。実際に行くタイプの旅行って何。あと,このあたりから人に見られる作品であることを意識し始めたので,撮影前にお皿についたパンのカスをある程度取り除くようになりました。

 

中部地方 

次は中部地方を巡ります。日本海側から太平洋側まで,このブロックには9つの県があります。特徴的な形の半島もいくつか見られ,隅々まで攻略するとなるとなかなか手強そうです。

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中部地方 地図

あ,飽きた人はいつでも読むのやめてもらっていいですからね?その際はこのままブラウザを閉じてください。なお,画面内の◀をタップして戻るとここまでのデータが失われるのでご注意ください。いやほんまなんなん。ネットのサイト,この警告多いし,脅しが強めで怖い。1つ前のページをもっかい読みたいか入力内容を修正したいだけやのに。「1ページ戻る」的なリンクの方を大きく見つけやすい位置に出してくれたら済む話やのに。

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気を取り直して。太平洋側はうまくできたと思います。静岡県と愛知県に至ってはこれをTシャツにプリントして地元で売ったら儲かるレベルでしょう。一方日本海側の攻略には課題が残りました。新潟県はとても苦しそうにしているし,石川県も持ち前のシャープさが損なわれてしまいました。やはり細長いフォルムは難易度が高いのです。ちなみに幼少期の思い出なのですが,私の父は酔って寝ている時,なぜか肘から先を空中にもたげていて,そのくせ手首は脱力していたので,横から見るとそのさまは石川県の形そのものでした。母との間でこっそり能登半島ってあだ名つけたりもしたな。どんどん旅行記じゃなくなっていってるわ。もうなんでもいいや。

 

近畿地方 

てなわけで,東日本は制覇しました。ここから西日本です。近畿地方は人生の大半を過ごしたエリアなので,天気予報などで都道府県の形にも最も馴染みがあります。しかし繰り返しますがこの旅行にそんなことは関係ないのです。結局はマーガリンの香りがする大地,すなわちトース島から都道府県の形を取り出してあげるだけです。だんだん発言が彫刻家みたいになってきました。そう,そこに都道府県はすでに眠っている。私はそれを見い出して,取り出して,みなさんの元にお届けする孤高の存在だ。そう思わないとやってられない。( )

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近畿地方 地図

ちなみに作業,もとい旅行にはまあまあ時間がかかるので,写真を撮った頃にはトーストは常温に戻っています。お皿や机はパンのカスまみれです。手と口はマーガリンでテカテカ不可避です。1県訪れるたびに賢者タイムみたいなやつが襲ってきます。それでも次の県に行こうとするんだから旅というのは人間の本質なのかもしれないですね。は?

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慣れてきた感じがありますが,奈良県が縮こまってしまったあたり,ちょっと旅の疲れが出てきたのかもしれません。とはいえ,細長い三重県をきっちり表現しきることに成功しました。これは評価に値するでしょう。ところであなたは和歌山県に飛び地があることを知ってましたか?上の地図を参照してみてください。この企画では面積的に表現できそうな島や飛び地だけが登場しています。ちなみにこのエリアで最も苦労したのは滋賀県です。圧倒的な存在感を放つ琵琶湖を無視するわけにはいかないので,前歯を駆使して該当箇所をくり抜きました。琵琶湖の話をしている1文の中で「前歯」という単語を使った人は私が史上初でしょう。もちろん口まわりは油まみれでした。

 

中国地方 

はい,中国地方にまいりましょう。ここで学生時代の6年間を過ごしているので,実際に行ったことがある場所もたくさんありますし,このエリア出身の友人も多くいます。胸を借りる気持ちでしっかり旅していきたいと思います。

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中国地方 地図

日本海側,左が島根県右が鳥取県です。ちなみに「島根 鳥取」と検索すると関連ワードで「覚え方」がトップに来ます。なかなか頭に入らない人には一度それぞれの形になるように食パンを食べてみることをオススメします,一発で覚えられるから。

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というわけでこちらが中国地方のみなさんです。島根県隠岐諸島が入りきらなかったので,全国のお天気方式の配置を用いました。全国のお天気方式って使い勝手が良いですよね。作品のクオリティについて,山口県は地形の持つダイナミクスが表現できていると思います。しかし広島県,これはたべっ子どうぶつか?瀬戸内の小さな島々を省略してしまったこともあり,のっぺりしたフォルムになってしまいました。そういえば,この旅行では都道府県を乗せるのに一貫して同じお皿を用いています。お気づきの方もいるかもしれませんが,これはヤマザキ春のパン祭りで2015年に登場したお皿です。毎年少しずつデザインが違っていて,どれもめちゃくちゃ頑丈でレンジにも対応しているのでDon't miss itです。

 

四国地方 

いよいよ終盤戦です。今度は四国を巡りましょう。私には四国の出身の友人も割といるのですが,彼らはいつも,四国の中では自分の県が1番だと主張しています。逆にいえば,これら4県は良きライバルなのかもしれません。九州出身の人たちは,福岡以外の全県がハナからトップを取ることを諦めて2番手争いをしてますからね。このことに関しての福岡県民の態度?ご想像にお任せします。

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四国地方 地図

それはそうと,大学が休みの時に愛媛県にある道後温泉に行ったんですが,とても素敵な宿があったので翌年も行ってしまいました。今治にあるタオル美術館もおしゃれで楽しいです。香川県では釜玉うどん発祥のお店に行きました。本場はとにかくうどんが安いんですよね,平日でも観光客で賑わっていました。なぜ先に旅行記っぽいことを書いたかというと,この後はどうせ食パンが出てくるだけだからです。

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食パンです。もう振り返りとかも需要がなさそうなのでやりません。以上,食パンでした。

 

九州地方

ここで残念なお知らせです。じゃパン旅行はあと九州・沖縄が残っているのですが,なんと高知県を訪れている間に3月31日が来てしまいました。圧倒的計画ミス!なのでやむを得ずここで旅は終了となります。まだ出身県が出てきていないみなさんごめんなさい。

 

北海道 (再)

そして後回しにしていた北海道なんですが,これだけたくさんの都道府県に行った後でも,やはり大変難易度が高いので攻略することができませんでした。なんとかこれで許してもらうことはできないでしょうか。

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 すぐに何かわかったあなたはIQ103相当の頭脳を持っています。

正解はもちろんこれですね。

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山崎製パンさんはとても有能なので,旅行のためのお皿を提供してくれるだけにとどまらず,食パンで北海道を表現するのが難しいことを見通して,入門編として形が印刷された蒸しパンの開発もしてくれているのです。さすが大手だなぁ。

 

まとめ

ということで私の卒業制作の展示会にお越しいただき誠にありがとうございました。世間は外出自粛ムードなので,できることがなくなっちゃって2分に5回twitterを立ち上げているような方もいると思います。今回のクソブログがそのような方にとってのささやかな暇つぶしになっていれば幸いです。それでも暇な方は作品を実際の地図と丁寧に見比べてみてください。作者なりの細かい頑張りの跡を見つけられるかもしれません。それでもまだ暇な人?もちろんこの続きをやってくれるんだろうと期待しています。あと8県残っていますしね。長崎県とか島of島なので絶対やりたくないけど。

 

最後に,芸術作品には往々にして見る人へのメッセージが込められていますよね。私からもこの作品を通してみなさんにお伝えしたいことが2点あります。

その1 制作は計画的に! もちろん全ての都道府県を踏破するつもりでこの企画を始めました。なので,途中サボりすぎてこのような結果になってしまったことを反省しています。何事も早め早めの行動が大切ですね。「善は急げ」と言いますからね。これのどこが善やねん,そう思えたあなたは常識人です。その感性を大切に生きていってください。

その2 本仕込がうまい! 今回の旅行はヤマザキさん (ロイヤルブレッド,超芳醇),パスコさん (超熟) 等多数の協賛をいただいて実施したのですが,個人的ベスト食パンはフジパンさんの本仕込でした。柔らかいけどしっかりとした口あたりがナイスで,マーガリンとの相性もよく,毎朝食べても飽きのこない安定感がありました。おかげさまでミッフィーのトートバッグを2種類持っています。お皿といいバッグといい懸賞好きかよ。

 

今回も長文を読んでいただきありがとうございました。実は私のブログは今流行りのサブスク仕様となっているのですが,他のサービスとは違って登録手続きも月額も一切必要ありません。つまりだだ漏れです。「サブスク」も4文字変えれば「だだ漏れ」ですからね。(もっと読んで欲しいだけ)

 

エキゾチ〜〜〜〜〜ック! じゃパーン!🍞

皆勤賞の解禁show

皆勤賞について何かと世間がざわついているみたいです。

 

先日SNSで見た例だと,もらった皆勤賞の賞状を丸めてゴミ箱に捨てた画像を投稿していた方がいました。行動が刺激的だったこともあり,大きな反響があったようです。コメントも様々なものがついていました。投稿主は,日本の労働環境が現在のようになっているのは休まなかったことを祝うような教育制度があるからではないかと考え,皆勤賞が与えられることに不快感を覚えたようでした。また,どうしようもない理由があって学校を休まざるを得ない人たちへの配慮に欠けるという趣旨の文章もついていました。おそらく先天的な障害や病気等のために継続的に通学するのが困難な方々を指しているのでしょう。

 

先に結論を言ってしまうと,私の意見としては,休まずに出席し続けた生徒が褒められることはあって良いこと,それどころかあった方が良いことだと思っています。ですので,その方向で考えていきたいのですが,まずはもう少し上のような立場の方の意見を掘り下げてみましょう。

 

皆勤賞に良い印象を抱かない人たちは少なからずいるようで,その理由としては例えば以下のようなものがあるようです。

 

①病気や障害等によりほぼ皆勤が不可能な人たちを無視した賞だから

至極正論だと思います。世の中にはたくさんの人がいて,歩くことが難しい人もいれば脳機能の発達が遅い人もいます。先天的なものに限らずとも,学校生活の中でいじめに遭い,トラウマを抱えて出席が難しくなってしまう場合もあるでしょう。皆勤賞は,これらの人たちに対して開かれていない賞であるため,公平性に欠けていてよくないという主張です。私は,この意見に同意します。しかし,それは皆勤賞を廃止すべきだということとイコールではありません。あとで解決策を探りましょう。

 

②運の要素が強いから

病気にならなかった,怪我をしなかった,事故に遭わなかった,これらの積み重ねによって皆勤賞は達成されるわけなのですが,そんなものはあまりにも運の要素が強すぎるという主張です。つまり本人が大変な努力の末に勝ち取ったものではないのに,ただ結果として休まなかっただけなのに,それを称えて賞状を渡すのはいかがなものかというのです。確かに運がなかった人は皆勤賞からは見放されます (病気に関しては運よりも遺伝とした方がやや正確かと思います)。ですが,この意見には疑問が残ります。病気,怪我,事故等はよく注意することによって多少防げるはずだからです。その注意は努力と呼ばれても何の問題もないと思いますし,そもそも運がよくて表彰されてはいけないという主張も,考えれば考えるほど私にはよくわからなくなります。

 

③休みづらい文化を助長するから

冒頭で触れた投稿にもあったように,出席し続けることが美徳であるという教育は,少しのことで休んではいけないという感覚を植え付け,それが日本における長い労働時間や育休等の取得率の低さにつながっているという意見です。さて,そのことについて本当に関連があるのでしょうか。私は証拠となるようなデータを持ち合わせていないので関連があるともないとも言えないのですが,1つ気になるのは,海外にも皆勤賞の制度が存在するところがあることです (例えば英語ではperfect attendance award等の言い方があるようです)。けれども,英語圏で働く人々が,会社を休みにくくて困っている (ましてや皆勤賞制度のせいで) というニュースを聞いた覚えはありません。つまり,皆勤賞が日本ならではの悪しき風習で,労働環境の悪さの原因となっているというのは無理がある気がするのです。

 

④健康でない人が無理に出席することで感染のリスクが高まるから

これはあってはいけないことだと思います。熱があるのに,咳が止まらないのに,皆勤賞欲しさに無理やり学校に行く (あるいは親に行かされる) ということはしばしば起きているようです。クラス全員で皆勤賞を取るために点滴を打ってまで登校し,しかもそれが美談化されたという例さえあったらしいので驚きです。皆勤賞というのは,無理をしないと出席できない人がいる場合,その本人やクラスメイトの健康を差し置いてまで取るべき賞なのでしょうか。仮にそういう空気があり得るのならそれは皆勤賞のダークサイドでしょう。これについてもこの後考え直してみたいと思います。

 

皆勤賞に嫌悪感を示す人たちが何を問題と考えているかについてざっとまとめてみました。細かくリサーチしたわけではないので他にも問題点があるかもしれませんが,その場合はまた教えていただけるとありがたいです。

とはいえ,皆勤賞は多くの地域で長く存続しているのもまた事実です。皆勤賞をもらって素直に誇らしかった人,逃して素直に悔しかった人,もらっている友人をみて素直におめでとうと思った人もたくさんいることでしょう。毎日休まずに元気に学校に行くことは立派な目標になり得ますし,それを実行できたら報いとして賞がもらえるという仕組みは全く変とか悪とかではないように思えます。

 

ではそろそろ問題のおさらいと解決策の提案に入りたいと思います。皆勤賞それ自体はよくできた人を称える賞であるのに,このやり方に疑問や反感を覚える人も多いことが今回のトピックです。皆勤賞が持っているかもしれない負の性質について,私が納得できたのは,①「公平性に欠けている性質」と④「生徒の健康を損ないかねない性質」です。②「運の要素が強い」と③「労働環境の助長」については,必ずしもそうとは言えないと感じたため,今回は本質的な皆勤賞のダークサイドではないと判断しました。では,皆勤賞を生かしながら,公平性に欠けていることと生徒の健康を犠牲にする可能性があることの2つの問題点をクリアにする方法はあるのでしょうか。

つまるところ,皆勤賞それ自体が害悪ではないとしても,結果的によくないものとして捉えられることがあるのは,皆勤賞が「1つの価値」になってしまっているからではないかと私は考えます。

思い出してみてください。皆勤賞は年度末や卒業式の際に表彰されますよね。そこで賞状や記念品を贈呈されて,拍手をもらう。

 

担任の先生「では続いて,それ以外の賞の授賞式に移りましょう〜…え?皆勤賞しか用意してない?…じゃあこれで終わります。〇〇さんおめでとう!」

 

勘の良い方は私の言いたいことにもうお気づきかと思います。つまり,あの最後のホームルームかその周辺で表彰されるのは,多くの場合皆勤賞だけなのです。それが先ほど「1つの価値」と言った意味です。たった1つ,それしかないから,もらえるはずのない人に配慮がないものになってしまうのであり,もらえなくなりそうだと感じると無理をしてしまうのです。

「ナンバーワンにならなくてもいい。もともと特別なオンリーワン」日本国民がみんな知っていて大好きな歌詞です。でも年度末の学校の教室では,皆勤賞がナンバーワンであり同時にオンリーワンでもある状態が生まれてしまっているのです。生徒たちはもともと特別なオンリーワンなのだから,個性にしたがって輝ける場所を提供してあげれば良いのではないでしょうか。すなわち,賞の種類を増やして,皆勤だけが特にすごくてえらいのだという風潮から脱却すれば良いのではないでしょうか。これが今回私が提案したい解決策です。

 

賞はいくらでも自由に作れますから,どんな賞を何種類用意するかはそれぞれで工夫すれば良いのです。例えば,生徒みんなで無記名投票をして「今年一番優しかったで賞」とか「今年誰よりも頑張っていたで賞」とかを決めても良いと思います。他にも先生の方から「もっとも背が伸びた人」とか「いつも教室を盛り上げてくれた人」とかを表彰してみてもおもしろいのではないでしょうか。

そちらの方が,世の中には良さの基準がたくさんあって,あの人にも自分にも素敵な部分があるんだということをポジティブに学べるのではないかと思います。1年間過ごしてきた中で,周りの人が自分 (の意外な側面) を評価してくれていることに気づいた時,その人にとってその1年はとても実りのあるものになるのではないかと期待してしまいます。それが小学生だろうと高校生だろうと。認められるのは嬉しいですから。

 

私はこの方法に期待したいですが,本気で実施するためには少なくとも次の2点に注意すべきだと思っています。1点目に,どんな賞があるかを年度の始めに伝えてしまうと,生徒たちが特定の賞を狙ってその賞にふさわしい自己を演出しようとしてしまう可能性が考えられます。これはあまり健全でないので先に賞の種類を告げることはオススメしません。あくまでこれらの賞はオプションということにしておきましょう。2点目に,このやり方は教員の仕事を増やしがちなため,ただでさえ休めない先生たちの労働環境を悪化させる危険性をはらんでいます。この,生徒のメリットと先生の負担のジレンマをどう考えるかは大きな課題です。

仮にこれらをクリアできたとき,「皆勤賞は価値の1つ」作戦は生徒たちの喜びを増やすことに一役買ってくれるのではないでしょうか。楽観視が過ぎるでしょうか。読んでくれた方の冷静なご意見を乞いたいです。

 

本の学校教育,特に義務教育が苦手としている分野の1つは,子どもたちに価値の多様さを教えてあげることだと私は考えています。勉強ができない子はコンプレックスを抱えたりグレたりしがちですが,別に勉強が得意じゃなくても良いし,特技みたいなものを持ってなくても良いはずです。私は大学生まできてやっと少しそんなことに気づき始めました。まだまだ見たもの聞いたこと全て吸収することだらけ世代の子どもたちには早くからこのことに気づいて欲しいのです。

(この世界には皆勤も含めて他にも数え切れないほどの「すごい」があるんだ…!)

 

 

というわけで結論です。繰り返しになりますが,皆勤賞を「1つの価値」から「価値の1つ」に変換してあげるだけで,この賞に対する見方が変わってくるのではないでしょうか。ちょっと炎上したらすぐ訂正,すぐ謝罪の世の中ですが「燃えるなら 殺してしまえ 皆勤賞」では芸がなさすぎます。「燃えるなら その火をよーく 見てみよう」とでも言いましょうか。炎の色や形,燃え方は様々で,じっくり観察すると案外きれいです。炎=子どもたち=個性です。消すことばかり考えずに,見守って成長させていきませんか。

 

きっと皆勤賞に対する逆風をもろに受けて,この制度を泣く泣く廃止している学校も現にあることでしょう。そのような学校がまた皆勤賞を設けられますように。全国で皆勤賞の解禁showが見られますように。

 

 

「『無人島に何を持っていくべきか』を話し合う会議」に何を持っていくべきか

 いきなりですが想像してみてください。あなたは明日,「無人島に何か1つだけ持っていけるとしたら何を持っていくべきか」を話し合う会議に出席することになっています。あなたがその会議に持っていくべきものは何でしょうか。カバンとか飲み物とかそういうもの以外に,マストで持っていかないといけないものが2つあると私は考えています。

 1つ目は,皆さんのほとんどが無意識のうちに用意して,しっかりと抱えて出かけるはずです。ところが,2つ目に関しては持っていくべきだということに気づいている人はあまりいませんし,気づいている人も多くは道中で落としてしまったり会議中に放り投げてしまうように思えます。この2つの持ち物は,生産的・効率的に会議を進める上で必要不可欠であるというのが私の意見です。

 

 回りくどく書いてもしょうがないので,私が思う正解をお伝えします。1つ目の持ち物は「自分の意見」です。この場合は,例えば「ナイフ」です。そして2つ目の持ち物は「自分の意見が正しいとは限らないという考え」です。この場合は,例えば「実はナイフよりももっと必要なものがあるかもしれないという考え」ということになります。

 

 あなたは会議室に到着しました。2つの持ち物をしっかりと持って。さあ会議が始まりました。出席者4名それぞれが1つ目の持ち物をメンバーに披露します。「ライター」「水」「本」...。あなたは「ナイフ」を提案しました。出席者は1つ目の持ち物を用意した理由を紹介します。ライターの人は,火を起こせないようでは暖も取れないし,加熱せずに食べられるものは多くないと主張します。水の人は,飲み水は無人島にないので活動の資本を用意しないと元も子もないと言います。本の人は,もう無人島に流される時点で生き延びるのは不可能だ,なら最後は大好きな本を読んで死にたいと述べます。あなたはナイフがあれば物を作ることもできるし,外敵から身を守ることもできると言いました。まずは全員が1つ目の持ち物をきっちりと披露し終えました。

 会議は順調に進んでいるように思われましたが,あなたはここで異変に気づきます。他の出席者は誰も,2つ目の持ち物を持ってきていませんでした。つまり,みんな自分の意見こそが絶対に正しいと考えているのです。さて何が起こるでしょうか。

 

 ライターの人があなたに言います。「獣をナイフで仕留めたところで,火を通せないのではそれは食べられないからむしろ生ゴミになってしまいませんか」あなたはライターの人に返します。「その通りです。ただしその獣に襲われて死んでしまったら,と考えると自身を守る方が優先されるのかなと思いました」…あなたは他人の意見を受け入れつつ話し合うことを心がけています。ライターの人は反論します。「大きな獣に襲われるという状況を仮定すると,ナイフ一本では太刀打ちできないと思うので武器としてナイフを持っていくのは無意味ではないでしょうか」あなたは「確かに襲ってきた相手が大きい場合は厳しいです。逆に小さい相手や鈍い相手ならナイフは役に立ちます。その場合でもライターでやっつけることは難しいので,ナイフが無意味というわけではないと思います」と返答しました。ライターの人は自分の意見が通らないことにイライラし始めます。

 「私はライターを武器として持っていくとは言っていない。論点をすり替えるな」「あくまでも外敵に遭遇した場面のみを想像してナイフとライターの使い勝手を比較しただけですよ」「無人島に外敵がいるかもわかってないのになんで当然出くわすみたいに喋るんだ,前提を見直してきてくれ」

 

 ライターの人が文字通り着火してしまったので,水の人と本の人は話す機会を失っていました。水の人が話せなかった鬱憤を晴らすように煽ります。「ほら,無人島に何かいるとしたらあなたのような野蛮な生物ですよ,だからまずは私が持って行った水で鎮火しないとね。笑」今度は本の人が水の人にふっかけます。「どうせ死ぬ運命なのにまだ争う体力と精神力があるなんて羨ましい。私は本を読んで,疲れたらそのまま眠るように息を引き取りますので。もう話し合いは結構かな」

 

 あなたは呆れて言葉も出ません。ライター,水,本を提案した出席者は,自分が正しくないかもしれないとは夢にも思っていないので,他の人の意見を尊重しないばかりか,言葉尻を捉えて笑い者にすることに夢中です。水の人が本の人を攻撃します。「無人島と聞いて諦めるようなやつはいらねえ。やっぱりゆとり世代は根性がないからだめだ」どうやら本の人はゆとり世代らしいです。でもそのことと今回の議題には何の関係もないことは明らかです。ライターの人も乗っかります。「本の君,この会議は無人島で生き延びることを前提としているんだ。わかるかね。私たちに喧嘩を売っているのかい?」ライターの人は前提が大好きなようですが,この会議では外敵に関する前提も生き延びることに関する前提も設定されていません。だからこの人の指摘は的外れです。あなたは発言を控えて会議を見守っているうちに,出席者の非生産的な部分に気づいてしまっていたことを自覚しました。

 

 会議はもはやカオスです。本の人「確かにあなたはライターを持っているので,私にムカついたら本を燃やせますもんね。笑」ライターの人「だから無人島で2人一緒にならない前提だろ!」水の人「火も消せるし,本も濡らしてダメにできるし,結果水が最強じゃないですか?」結局,会議は何の合意もないままにタイムアップを迎え,それどころか出席者たちは終了直後から一切口をきかずに足早に帰っていきました。

 

 …

 

 ここまで読んでくださった方,ありがとうございます。長々と架空のストーリーにお付き合いいただきましたが,現実の私たちも多くの場合はこのようになっているのではないでしょうか。

 

 自分の意見が正しいという思い込みはとても危険です。とはいえ,自分の意見を誰も持ってこなかったら話し合いが始められません。だから自分の意見はマストの持ち物の1つなのであり,そのことは特に指示されなくても出席者に十分共有されています。そのため,参加する気のある出席者は自分の意見をほぼ持参します。

 

 一方で,その結果1つの議題に対して複数の (魅力的な) 解が持ち寄られるという当然の状況についてはあまり考慮されていないように感じます。同じ人間が考えてくる案なのだから,自分のものよりも革新的なものや深い洞察に基づいているものがあっても何も不思議ではないのです。我々は,ここまで考えが及ばないか,及んでもそれを認めたくないためこの考えを破棄しがちであると思います。

 

 集団で会議をするのなら,その目標は集団として最善の解決策を見出すことであり,自分の意見を1から100まで通すことではありません。「ライター!ライター!それにつけても無人島はライター!」では会議とは言えません。「ライターも水も確かに重要だね,こすって火も起こせるけど絞って水分も取れるような植物はないのかな」というように,せっかく多様な意見が集まっているのならそれらを尊重してあわよくば統合してやろう,という気概を共有して会議が行われれば,その会議はより生産的なものになるのではないかと私は考えます。

 

 

 すでに述べてきた通り,誰にとっても会議では自分の意見が正しい (ことになっている / している) ため,自己の正当性を主張するのに必死になることは無理もないでしょう。せっかくなので,今回登場した厄介な出席者をタイプ別にみておきます。どの出席者も我々が陥りやすい醜態を象徴していると思います。

 

ライターの人タイプ:主観の押し付け

 本人の中にある前提が主観的であり他者に共有されているとは限らない,という視点が完全に抜け落ちており,他者がその前提に合わないことを言うと主観を押し付けてきます。無人島の会議では,外敵の存在に関する前提もなければ,生き延びる義務の前提もありませんでした。ライターの人は勝手に「無人島では完全に孤独で,でも生き延びなければならない」と思い込んでいたに過ぎないのですが,その感覚は普遍的だと信じているため,譲歩や再考といった選択肢はありません。重症の場合には,豪快なダブルスタンダードを披露することもあります。

 

水の人タイプ:人格攻撃

 自分の意見が正しいという思い込みは,言い換えれば他者の意見は大したことないという思い込みです。「他者の意見軽視」はいとも簡単に「他者そのもの軽視」に結びついてしまいます。この他者そのもの軽視は重い病であり,「他者の意見に対する批判」とは質の異なる「他者そのものに対する否定」という症状をみせます。会議で水の人は,ライターの人の意見ではなく,ライターの人そのものを「野蛮な生物」と揶揄し,本の人の意見ではなく,本の人そのもの (ゆとり世代であるという本人の意思でどうにもならない背景) を否定していました。

 

本の人タイプ:本質を逸脱した皮肉屋

 会議の中で本の人は「どうせ死ぬ運命なのにまだ争う体力と精神力があるなんて羨ましい」「確かにあなたはライターを持っているので,私にムカついたら本を燃やせますもんね。笑」と言っていましたが,これらの発言は明らかに本質的な議題から外れています。このタイプの人は往々にして「喧嘩みたいな会議しかできない皆さんと違って,私には高いところから全体が見えていますよ」とでも言いたげですが,実際にはこの手の発言は最も派手に会議をレールから脱線させます。皮肉によって出席者の感情を煽るからです。このタイプの患者は感情的になった参加者を見てまた優越感に浸るため,会議が負のスパイラルに陥りやすく,たちが悪いです。

 

 

 上に述べたような出席者が多いと言う私の感覚は,もしかするとみなさんとは異なるかもしれませんがその場合はご容赦ください。

 それ以上に伝えたいことは,厄介な出席者も多くは元々厄介な人というわけではなく,会議の中で感情的になることで厄介な面が現れてくるということです。さらには,感情的になる原因の1つが自分の意見が通らないことであることを考えると,2つ目の持ち物をしっかりと持ち続けることで他者の意見を多少なりとも尊重できるようになり,自らの「厄介指数」が上がっていくことをある程度防げるのではないかということです。

 

 逆に言うと,賢くても,地位があっても,人に見られていても,厄介指数が上がる時は上がってしまいます。参考資料として私の過去のツイートを載せておきます。

 

 

 

 散々偉そうに書いてきましたが,国会でさえこうなり得るという例を見ていただいたように,私も自身をコントロールできずに厄介指数を上昇させてしまうことがよくあります。私の場合はライターの人タイプや本の人タイプになってしまいやすいです。

 誰しもそのようなクセは多かれ少なかれ持っていると思うので,そのことを自覚して,次回こそは最後まで2つの持ち物を手放さないようにしようと心がけることが重要ではないでしょうか。これを本日最後の主張として,このブログを終えたいと思います。

 

 

 長くなりましたが,最後までお付き合いいただいた方本当にありがとうございます。賛否は両論とも欲しいタイプなので,わざわざ読んでくれた人はせっかくなので何かフィードバックしてくれると私が報われます。 

 

 

あとがき

 今回私は「自分の意見」はたくさん書かせていただきましたが,もちろん「自分の意見が正しいとは限らないという考え」も持ち合わせています。つまり,会議に持っていくべき持ち物が2つあるとして,それらがここで提案したものとは限らないと思っています。

 別の意見があるよ!という方はぜひ教えてください。

 言うまでもないですが,その時はこの記事に火をつけたり,水をかけたり,本で殴ったりしないでくださいね。

 

 

 お し ま い ☆

 

素晴らしき言行不一致の世界

 

ご無沙汰しております。

 

 

人間観察が割と好きなので、

いろんな人がいるな〜と思いながら

日々生活してるんですが

 

人っておもしろいぐらい

発言と行動が一致してない!!

 

今回は、発言と行動が矛盾している人たちを

ランキング形式で紹介したいと思います。

 

なお、以下の内容は偏見に満ちています。

なので根拠がないことと口が悪いことは

先にお断りしておきます。

 

ではいってみましょ〜〜〜

 

 

 

 

第3位

「言われたことしかできないのか!」

とか言ってデキるぶってるやつ、

言われたことすらできない。

 

マニュアル人間は終わってる

みたいな物言いする人に限って

規則とか基本を無視する感じせん? 

 

言われたこともできんくせに

好き放題やりたい放題して

"独創性"とか言ってんのダサいわー。

 

 

 

第2位

「植物にも感情はある!」

とか言って慈悲深い感出してるやつ、

植物に自分本位の言葉かけがち。

 

「は〜い、お水ですよ〜

おいしいですねぇ〜♡」

 

・・・。

植物に感情があるかは知らんけど、

もしあったとしたらそれこそ

こんな恩着せがましい人に

世話されたくないやろな(笑)

全然植物サイドの気持ちに立ってない。

 

 

 

番外編

「今子どもができても困る」

とか言ってる男、

たいがい童貞。

 

あっ、これはスルーかな。

でも困る展開にはならんから

とりあえず安心安心。

 

 

 

第1位

「美味しいもの食べたい」

が口ぐせのやつ、

何食べてても美味しそう。

 

これ!!

一番言いたかったやつ!

共感してくれる人いるはず!

 

いや、すごい良いことなんやで。

すごい良いことやからこそよ。

「美味しいもの食べたい」が

自分でフリ入れてるみたいで

サイコーにツボ。

 

 

 

 

最近見つけたのはこのぐらいなんやけど

まだまだありそうな気がする...

 

おもしろい言行不一致を知ってるよ

って人がいたら是非教えてください(^^)

大好物なので笑

 

 

ではでは。

最後まで読んでいただいて

ありがとうございました。

  

 

未来予想図2016

 

 

 

 

「まったく最近の若い者は」

 

 

このフレーズ,別に流行ってんじゃなくて,

結局いつの時代も年配者は

若者に同じこと言うんですよ。

 

筆者は現在20歳なので

今は言われている側です。

 

大きくまとめると「ゆとり」ですね。

 

よくある具体的なものは,

根性がない とか

敬語が使えない とか

何でも略してしゃべる とか

etc...

 

まあ全体に否定的な内容なわけで。

 

移り変わる時代をリアルタイムに反映した流れと

作り上げてきた習慣=常識のギャップが

冒頭の言葉を生んでいるのでしょう。

 

つまり上の世代からみた若者の言動は

「新・非常識」なのです。

だからどの時代にも存在するし,いつも否定的。

 

 

ここまでは個人的な見解です。

 

 

 

そしてこの見解がある程度当たっていれば,

自分たちの世代も数十年後には

口を揃えてこう言うでしょう。

 

 

「まったく最近の若い者は」

 

そんなもんです。

ついていけないんですから。

 

半分は怒りでも半分は嫉妬です。

 

 

 

 

…でも。でもですよ。

想像したら怖くないですか?

 

現在かもう少し未来に起こることが,

先々若者のスタンダードになるのです。

 

例えばどんな展開があるでしょうか。

 

 

○キラキラネームが全盛の時代でしょう。

「先輩たちって同じ名前の人多くて,

オリジナリティーに欠けてますよね〜」

 

○クルマは自動運転の時代かもしれません。

「免許証見せてくださいよ!うわー。

昔の人っていちいち大変だったんすね」

 

○翻訳アプリの精度が格段に上がっていたら。

「先輩が学生の頃って

まだ英語の授業が必修だったんですよね?」

 

 

…なるほど。

若者,しゃくにさわるやん。笑

 

 

確かに将来の世の中を作っていくのは

主に若者かもしれない。

でも,その時点までを担ってきたのは

上の世代の方々です。

 

どっちが偉いとか優先とかじゃなくて,

お互いをリスペクトできることが大事なのでしょう。

 

 

恐ろしい未来の様子を考えてみれば,

今キャリアの後半をまっとうしている人たちは

目上の人ではあっても

目の上のこぶではないことが理解できます。

 

 

目上の人が何をどれだけ言ったって,

変わるものは変わるし

変わらないものは変わらない。

 

社会全体の力の方がはるかに強いですから。

 

 

だから心に余裕を持ちたいですね。

反発するだけの若者,

小言を言うだけの年寄り。

 

どっちにもなりたくないから,

どっしり構えるように意識しようと思いました。

 

 

 

最後になりますが,このブログ

まあまあ頑張って書いてるわりには

閲覧数が伸びてないみたいです。

そこで一言いいですか?

 

 

「まったく最近の若い者は」

 

(笑)