我輩は社会人4年目である。アイデンティティはまだない。

思ったこと書きます。内容も更新も気分次第です。

ミスコン,昨今,オワコン?

日本の大学祭でおなじみのイベントの一つに,ミス・コンテスト (以下,ミスコン) があります。規模の大きいミスコンになってくると,メディアやSNSで大きく取り上げられ,一瞬にして候補者が有名人になる勢いがあります。一方で,近年ではミスコン廃止論というものも盛んになり,長年続いていたミスコンを廃止したり,形式を変えたりしている大学も多く存在します。

 

今回は,ミスコンがなぜ批判されるようになってきたのかを学び,その上でミスコンは絶対に廃止されるべきなのか,どちらかといえば廃止した方が良いのか,はたまた廃止する必要なんてないのかを考えてみたいと思います。また,ミスコンについて考えた後に,多様性についても少し考えてみようと思います。

 

 

第1章 ミスコン,昨今,オワコン?

ミスコンは,①規模や形式の差こそあれ全国に広く普及していること,②近年潮流が大きく変わっているジェンダーや多様性に絡むお話であること,③多くの大学で文化祭シーズンが近づいてくること (今年は例年通りの開催は難しそうですが) から,このタイミングで考えておきたいトピックだと思っています。

なお,ミスコンの実施形態は様々あるかもしれませんが,この記事では大学において開催されるものの実施の是非を考えます。

 

ルッキズム (Lookism:外見主義)

ミスコン廃止論の中で最も重要な考え方はルッキズムであると思われます。

ルッキズムとは,wikpediaによれば「身体的に魅力的でないと考えられる人々に対する差別的取り扱いのこと」を指すようです。一般的に浸透しつつある考え方として,人を外見で評価してはならない,というものがあり,ルッキズムと関連していると思われます。

もう少し正確にいうと,ミスコンに対するルッキズムからの批判としては,「画一的な美の基準で人を評価したり判断したりするのがよくない」ということになります。

私もこの意見に同意します。人それぞれ容姿についての好みがあることは自然なことですが,それをオープンにし,かつ評価して序列をつけることは誠実な行いとはいえないです。その行為自体が,性的な消費 (詳細は割愛します) に直結し,多くの方の気分や,場合によっては人権を害するからです。また,「画一的な」というワードも肝で,美的価値のように相対的で曖昧で多様なものを,多数決のようにして絶対化,可視化することにも問題があります。

この,本来画一的でないものを画一化することの弊害ということは気に留めておく必要があると思います。なぜなら,画一的な価値に基づいて優劣を判定する営みは無数にあり,それらを悪と考える人はあまりいないからです。例えば,オリンピックの100m走では,優劣を決める基準はタイムに画一化されています。速く走れるかどうかで順位をつけるなんて非人道的だ!と人々が言わないのは,走る速さを唯一かつ絶対の基準として選手を評価することに,皆が合意しているからです。

 

環境型セクシュアルハラスメント

ミスコンの実施は,環境型セクシュアルハラスメント (以下,環境型セクハラ) にあたるという主張です。先に結論を言うと,私もこの主張に納得しました。セクハラには大きく対価型と環境型の2種類があり,大学における環境型セクハラとは「性的な⾔動、性的な図画や⽂書等の掲⽰または提⽰により、安全で公平な研究教育環境または職務環境を阻害したり、研究教育場または職務上屈辱感や不快感あるいは不安感を抱かせるような環境を醸成すること。また、その結果、教職員や学⽣の⼈格や個⼈の尊厳を傷つけること」とされています。

この定義を読むと,環境型セクハラに該当する事象はミスコンにはつきものであることがわかります。投票等を含めてミスコンに参加する気のない学生であっても (あえて女性に限定しません),参加者を性的に見ている言動を見聞きすることはそこそこ起きるでしょう。また,参加者と自分の容姿を比較して自分は美しくないとか価値がないとか考えてしまうこともあるかもしれません。これらによって不快感,不安感を抱かせることがある以上,ミスコンというイベントは,望んだ人しか参加しない場合であっても,構造的に環境型セクハラを含んでしまうでしょう。

実は私自身も,この記事を書こうと思って調べるまでは,参加したい人だけでやってるんだから誰も傷つけてなくない?と楽観的に考えてしまっていました。それは誤りで,「その他大勢」の気分を害したり,もっと言えば学内や社会における,取るに足らない美のスタンダードを醸成,強化してしまう危険性を孕んでいるということです。

 

 

まとめ

今回の私の主張は,ごくシンプルなものに集約できます。

  • ルッキズム,セクハラともに不特定多数の人の人権を侵害するために排除すべきものである。
  • 大学におけるミスコンにおいては,ルッキズムや環境型セクハラを容認・助長する構造がついてまわると考えられる。
  • 大学においてミスコンを実施することについて,(少なくともメリットよりは) デメリットが大きいと考えられるため,積極的な廃止に賛同する。

 

ただし,この主張もまた,私の「価値」観に根ざしていることをきっちりと申し添えておきます。すなわち,人権侵害 (の可能性を放置すること) を防ぐことを第一目標においているということです。ミスコンがあることで,ない場合よりも輝ける人は当然存在するでしょう。私は,彼女たちに与えられるかもしれない機会よりも,より多くの人のより基本的な権利を守るべきだと考えるため,上記のような立場を取るということです。この意見が正しいかはわかりませんし,ある程度正しいとしてもこれでミスコン問題が解決するとも思っていません。そして重要なことに「正しさ」は時代や文化によって絶えず変化します (価値を画一化することのナンセンスさにつながります)。なので,我々は思考をやめてはいけません。

 

ちなみに今回の記事では,長くて複雑になるために触れられなかった観点がいくつもあります (例:ミスコンとミスターコンの関係性,新しいミスコンとジェンダー課題への対応,伝統的な男性中心社会の問題等)。本記事のテーマに関心を持たれた方は,私が参考にしたwebページや文献を読まれることをオススメします。

 

ジェンダー・多様性      →参考文献2

ミスターコン         →参考文献3

才能・能力の発揮       →参考文献4

男女の非対称性,女性の客体化 →参考文献3,4

 

参考文献
  1. ルッキズム - Wikipedia
  2. 現代のミスコン/ミスターコンを、「ジェンダー論」の専門家はどう考えるか(高橋 幸) | 現代ビジネス | 講談社(1/7)

  3. 現代日本のセクシズム・ルッキズムについての考察 : 大学におけるミスコンを起点として
  4. ミスコンを批判することは「容姿という才能を活用する機会を奪う」ことではない : 九段新報

 

 

 

 第2章 〇〇コン,近々,オワコン?

皆さんにはここまで,特段オリジナリティのない記事を読ませてしまったので,まとめの後で恐縮ですが私の所感を述べたいと思います。

ミスコンは見た目や性に関する評価ありきなので,そんなものに優劣をつけるのはよくないということで廃止論が盛り上がっています。上記のように私は廃止論に基本的に賛成の立場をとりますが,ややもするとこの動きはある意味で悲劇の始まりかもしれないというぼやきをしようと思います。

 

多様性尊重の誤解と暴走

「容姿の価値は多様だから画一的な評価はいけない (lookism)」という論は,特に多くの人に関わり,特に弊害が大きかった概念が容姿であったために,これを評価・順位づけしないことの意義が最初に問われているということかもしれません。何が言いたいかというと,この世に山ほどある価値が相対的なものは,多様性の尊重を誤解したプロパガンダの元に次々に評価することを禁じられるのではないかということです。つまり,何かが できる / できない とか 優れている / 劣っている ということを顕現させるようなコンテストの類が駆逐されていくのではないかという予測です。本記事のタイトルになぞらえれば,〇〇コンが順次オワコン化していくということになります。

例えば,ユーモアなんて人それぞれなんだから画一的な評価はいけないとする主義,"humorism"が出てきたらM-1グランプリ等はなくなる可能性があります。味の良し悪しに絶対なんてないんだから点数化はやめようと言って"tastism"なんかが台頭したら食べログミシュランも葬り去られるかもしれません。

日本や欧米の多くの国では,長い時間と大変な苦労の末に資本主義や民主主義を獲得してきました。すなわち,一人一人が表現する自由や競争する自由を勝ち得てきた,と言い換えても良いと思います。そうして,皆が同じである必要がなくなり,むしろ違いを認めよう,ということになってきているわけです。念のため述べておくと,私は多様性の理解と尊重はとても大事だと考えています。人々が属性や能力によらずその存在価値を認められることが悪である理由が見当たらず,いくらあってもありすぎることはないからです。

しかし,この多様性尊重運動が本来の目的を見失って暴走すると恐ろしいと思いました。多様なものをそのままにして,一切の評価も順位付けも行わない世の中。

ーーいろんなことに秀でていたりいなかったり,そんなものがはっきり見えたら生きにくいよね。大丈夫,この社会では誰もそんなことしないよ。ビバ!多様性!ーー

この社会の姿は,多様性に価値が見出されるようになった歴史に対する皮肉だと思いませんか。好きや得意を生かして,自由に表現して,天井のない利益や名声を得ることを可能にするために社会構造を変えたのに。こうなってしまっては,ユーモアがある人のユーモアも,料理が得意な人の料理も,正当な評価を得られず埋没したままになってしまう可能性が高まります。これは,個人の成功のチャンスだけでなく,長期的には社会全体の生産性をも著しく損なうでしょう。競争したい,評価されたいと考えている人が評価を受ける権利を守ることも大切なのです。

 

多様性尊重の本質

多様性を尊重することの本質は,「いろいろな特徴があって良い」ということのみを保障することにあり,「飛び抜けてはいけない」ということとは全くもって意味合いが異なります。これがとても重要です。個性の存在自体を認めないことと,個性の発揮を否定することとを,混同してはなりません。これまでの暮らしから見るに,特に日本人はこの区別が苦手な傾向にあるかもしれません。なので気をつけましょう,と自戒を込めてここに記しておきます。何年後かにドヤ顔で「ほら言っただろ」と言わなくて済むことを祈りながら。

 

さいごに

多様性を尊重しながら,つまりルッキズムを克服しながら,各個人がその強みや個性を発揮する機会が最大限用意される世の中になるといいなと思いました。 アメリカなんかでは,部門を細分化してミスコンを開催する方法でルッキズムを乗り越えようとしています (参考文献2参照)。私は,第1章のまとめで触れたように,ミスコンがあることで輝けるかもしれない人の機会を奪うことになるという点で,単に廃止するということにももどかしさを感じています。多様性の尊重と個性の発揮の両立,ベターなやり方を探し続けることが求められていると思います。

 

 

最後までお読みいただきありがとうございました。

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