我輩は社会人4年目である。アイデンティティはまだない。

思ったこと書きます。内容も更新も気分次第です。

皆勤賞の解禁show

皆勤賞について何かと世間がざわついているみたいです。

 

先日SNSで見た例だと,もらった皆勤賞の賞状を丸めてゴミ箱に捨てた画像を投稿していた方がいました。行動が刺激的だったこともあり,大きな反響があったようです。コメントも様々なものがついていました。投稿主は,日本の労働環境が現在のようになっているのは休まなかったことを祝うような教育制度があるからではないかと考え,皆勤賞が与えられることに不快感を覚えたようでした。また,どうしようもない理由があって学校を休まざるを得ない人たちへの配慮に欠けるという趣旨の文章もついていました。おそらく先天的な障害や病気等のために継続的に通学するのが困難な方々を指しているのでしょう。

 

先に結論を言ってしまうと,私の意見としては,休まずに出席し続けた生徒が褒められることはあって良いこと,それどころかあった方が良いことだと思っています。ですので,その方向で考えていきたいのですが,まずはもう少し上のような立場の方の意見を掘り下げてみましょう。

 

皆勤賞に良い印象を抱かない人たちは少なからずいるようで,その理由としては例えば以下のようなものがあるようです。

 

①病気や障害等によりほぼ皆勤が不可能な人たちを無視した賞だから

至極正論だと思います。世の中にはたくさんの人がいて,歩くことが難しい人もいれば脳機能の発達が遅い人もいます。先天的なものに限らずとも,学校生活の中でいじめに遭い,トラウマを抱えて出席が難しくなってしまう場合もあるでしょう。皆勤賞は,これらの人たちに対して開かれていない賞であるため,公平性に欠けていてよくないという主張です。私は,この意見に同意します。しかし,それは皆勤賞を廃止すべきだということとイコールではありません。あとで解決策を探りましょう。

 

②運の要素が強いから

病気にならなかった,怪我をしなかった,事故に遭わなかった,これらの積み重ねによって皆勤賞は達成されるわけなのですが,そんなものはあまりにも運の要素が強すぎるという主張です。つまり本人が大変な努力の末に勝ち取ったものではないのに,ただ結果として休まなかっただけなのに,それを称えて賞状を渡すのはいかがなものかというのです。確かに運がなかった人は皆勤賞からは見放されます (病気に関しては運よりも遺伝とした方がやや正確かと思います)。ですが,この意見には疑問が残ります。病気,怪我,事故等はよく注意することによって多少防げるはずだからです。その注意は努力と呼ばれても何の問題もないと思いますし,そもそも運がよくて表彰されてはいけないという主張も,考えれば考えるほど私にはよくわからなくなります。

 

③休みづらい文化を助長するから

冒頭で触れた投稿にもあったように,出席し続けることが美徳であるという教育は,少しのことで休んではいけないという感覚を植え付け,それが日本における長い労働時間や育休等の取得率の低さにつながっているという意見です。さて,そのことについて本当に関連があるのでしょうか。私は証拠となるようなデータを持ち合わせていないので関連があるともないとも言えないのですが,1つ気になるのは,海外にも皆勤賞の制度が存在するところがあることです (例えば英語ではperfect attendance award等の言い方があるようです)。けれども,英語圏で働く人々が,会社を休みにくくて困っている (ましてや皆勤賞制度のせいで) というニュースを聞いた覚えはありません。つまり,皆勤賞が日本ならではの悪しき風習で,労働環境の悪さの原因となっているというのは無理がある気がするのです。

 

④健康でない人が無理に出席することで感染のリスクが高まるから

これはあってはいけないことだと思います。熱があるのに,咳が止まらないのに,皆勤賞欲しさに無理やり学校に行く (あるいは親に行かされる) ということはしばしば起きているようです。クラス全員で皆勤賞を取るために点滴を打ってまで登校し,しかもそれが美談化されたという例さえあったらしいので驚きです。皆勤賞というのは,無理をしないと出席できない人がいる場合,その本人やクラスメイトの健康を差し置いてまで取るべき賞なのでしょうか。仮にそういう空気があり得るのならそれは皆勤賞のダークサイドでしょう。これについてもこの後考え直してみたいと思います。

 

皆勤賞に嫌悪感を示す人たちが何を問題と考えているかについてざっとまとめてみました。細かくリサーチしたわけではないので他にも問題点があるかもしれませんが,その場合はまた教えていただけるとありがたいです。

とはいえ,皆勤賞は多くの地域で長く存続しているのもまた事実です。皆勤賞をもらって素直に誇らしかった人,逃して素直に悔しかった人,もらっている友人をみて素直におめでとうと思った人もたくさんいることでしょう。毎日休まずに元気に学校に行くことは立派な目標になり得ますし,それを実行できたら報いとして賞がもらえるという仕組みは全く変とか悪とかではないように思えます。

 

ではそろそろ問題のおさらいと解決策の提案に入りたいと思います。皆勤賞それ自体はよくできた人を称える賞であるのに,このやり方に疑問や反感を覚える人も多いことが今回のトピックです。皆勤賞が持っているかもしれない負の性質について,私が納得できたのは,①「公平性に欠けている性質」と④「生徒の健康を損ないかねない性質」です。②「運の要素が強い」と③「労働環境の助長」については,必ずしもそうとは言えないと感じたため,今回は本質的な皆勤賞のダークサイドではないと判断しました。では,皆勤賞を生かしながら,公平性に欠けていることと生徒の健康を犠牲にする可能性があることの2つの問題点をクリアにする方法はあるのでしょうか。

つまるところ,皆勤賞それ自体が害悪ではないとしても,結果的によくないものとして捉えられることがあるのは,皆勤賞が「1つの価値」になってしまっているからではないかと私は考えます。

思い出してみてください。皆勤賞は年度末や卒業式の際に表彰されますよね。そこで賞状や記念品を贈呈されて,拍手をもらう。

 

担任の先生「では続いて,それ以外の賞の授賞式に移りましょう〜…え?皆勤賞しか用意してない?…じゃあこれで終わります。〇〇さんおめでとう!」

 

勘の良い方は私の言いたいことにもうお気づきかと思います。つまり,あの最後のホームルームかその周辺で表彰されるのは,多くの場合皆勤賞だけなのです。それが先ほど「1つの価値」と言った意味です。たった1つ,それしかないから,もらえるはずのない人に配慮がないものになってしまうのであり,もらえなくなりそうだと感じると無理をしてしまうのです。

「ナンバーワンにならなくてもいい。もともと特別なオンリーワン」日本国民がみんな知っていて大好きな歌詞です。でも年度末の学校の教室では,皆勤賞がナンバーワンであり同時にオンリーワンでもある状態が生まれてしまっているのです。生徒たちはもともと特別なオンリーワンなのだから,個性にしたがって輝ける場所を提供してあげれば良いのではないでしょうか。すなわち,賞の種類を増やして,皆勤だけが特にすごくてえらいのだという風潮から脱却すれば良いのではないでしょうか。これが今回私が提案したい解決策です。

 

賞はいくらでも自由に作れますから,どんな賞を何種類用意するかはそれぞれで工夫すれば良いのです。例えば,生徒みんなで無記名投票をして「今年一番優しかったで賞」とか「今年誰よりも頑張っていたで賞」とかを決めても良いと思います。他にも先生の方から「もっとも背が伸びた人」とか「いつも教室を盛り上げてくれた人」とかを表彰してみてもおもしろいのではないでしょうか。

そちらの方が,世の中には良さの基準がたくさんあって,あの人にも自分にも素敵な部分があるんだということをポジティブに学べるのではないかと思います。1年間過ごしてきた中で,周りの人が自分 (の意外な側面) を評価してくれていることに気づいた時,その人にとってその1年はとても実りのあるものになるのではないかと期待してしまいます。それが小学生だろうと高校生だろうと。認められるのは嬉しいですから。

 

私はこの方法に期待したいですが,本気で実施するためには少なくとも次の2点に注意すべきだと思っています。1点目に,どんな賞があるかを年度の始めに伝えてしまうと,生徒たちが特定の賞を狙ってその賞にふさわしい自己を演出しようとしてしまう可能性が考えられます。これはあまり健全でないので先に賞の種類を告げることはオススメしません。あくまでこれらの賞はオプションということにしておきましょう。2点目に,このやり方は教員の仕事を増やしがちなため,ただでさえ休めない先生たちの労働環境を悪化させる危険性をはらんでいます。この,生徒のメリットと先生の負担のジレンマをどう考えるかは大きな課題です。

仮にこれらをクリアできたとき,「皆勤賞は価値の1つ」作戦は生徒たちの喜びを増やすことに一役買ってくれるのではないでしょうか。楽観視が過ぎるでしょうか。読んでくれた方の冷静なご意見を乞いたいです。

 

本の学校教育,特に義務教育が苦手としている分野の1つは,子どもたちに価値の多様さを教えてあげることだと私は考えています。勉強ができない子はコンプレックスを抱えたりグレたりしがちですが,別に勉強が得意じゃなくても良いし,特技みたいなものを持ってなくても良いはずです。私は大学生まできてやっと少しそんなことに気づき始めました。まだまだ見たもの聞いたこと全て吸収することだらけ世代の子どもたちには早くからこのことに気づいて欲しいのです。

(この世界には皆勤も含めて他にも数え切れないほどの「すごい」があるんだ…!)

 

 

というわけで結論です。繰り返しになりますが,皆勤賞を「1つの価値」から「価値の1つ」に変換してあげるだけで,この賞に対する見方が変わってくるのではないでしょうか。ちょっと炎上したらすぐ訂正,すぐ謝罪の世の中ですが「燃えるなら 殺してしまえ 皆勤賞」では芸がなさすぎます。「燃えるなら その火をよーく 見てみよう」とでも言いましょうか。炎の色や形,燃え方は様々で,じっくり観察すると案外きれいです。炎=子どもたち=個性です。消すことばかり考えずに,見守って成長させていきませんか。

 

きっと皆勤賞に対する逆風をもろに受けて,この制度を泣く泣く廃止している学校も現にあることでしょう。そのような学校がまた皆勤賞を設けられますように。全国で皆勤賞の解禁showが見られますように。